松本ニュース Vol.1.2
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松本ニュース Vol.1.2
目次
2.1 僕の父
2.2 貴美子さん(カナダ在住)と話して
2.3 横浜の友達に対して(95.5)
2.4 また地震だ
2.5 父の遺骨を移すにあたって(95.5)
2.6 父の追悼式(95.6)
2.7 家の取り壊し
2.8 プール
2.9 六甲山(95.12)
2.10 父-子の会話(96.1)
2.11 創造的復興(96.1)
2.12 義援金になれた人々の勘違い(96.1)
2.13 葬儀を思い返して
2.14 母の記憶(96.1)
2.15 96.1.13 父の一周忌の法要にて
2.16 小柴社長(大阪バルブフィッティング)と話して
2.17 西宮市の"阪神・淡路大震災1周年 西宮市犠牲者追悼式"に参列
2.18 ぼくの1年は
2.19 新聞から
2.20 正和のコメント
松本ニュース Vol.2.1 '96.2.11
がんばるぞ西宮
発行者 松本正人
BXB00613@niftyserve.or.jp
転載はお断りします
松本ニュースVol.1.2の続きを書ける余裕ができてきたので、Vol.1.2に載せなかったこと、最近主たことをまとめました。
2.1 僕の父
ぼくにとって父親は、なかなか勝てないライバルだったと思います。ここは受け入れられないと思うところもたくさんありましたが、さすが、と思うところがたくさんあるひとでした。これは、父親を一人の人間として見ていた見方だと思います。親子という観点では、大学までは自分(僕)の生計を支えてくれている人、という部分が大きかったように思います。就職後、父親に関しては1個人として見ていた部分が大きかったので、親だからとか子だからという接し方をしていた部分は小さかったと思います。対照的に母親については、母として子に押しつける部分が多く感じられ、うるさく思っていた部分が多くありました。僕のまわりには僕が目標とする人が多くいます(単に目標が低いからかもしれませんが...)。父親もその中の一人です。というよりは、代表する一人だと思います。そう思えたから、僕が父と最期までいい関係を続けることができたのだと思います。
2.2 貴美子さん(カナダ在住)と話して
神戸製鋼に入社した時に英語のクラスで仲良くなった友達のうち、今カナダで日本語を教えている友達が帰ってきたので集まり色々な話をしていました。その中で東京の友達とゴールデンウイークに遊んでいた人が「神戸で震災がおきたけど、大阪は大丈夫だったんでしょう」というようなことをいわれ、ショックを受けていたと話していました。被災地の中にいる人にとっては非常に問題意識は高いものの、日本という視点で見ると1地方都市に地震が起こっただけだということを実感させられました。これはその東京の人を批判しているのではなく日本人のものの考えかたのように思えます。我々も奥尻島、島原、松本サリン等に対して自分たちは大丈夫、あの地方の人は大変だとぐらいにしか思っていなかったように思えます。
これに対してアメリカ、カナダ、ブラジル等他の多くの国の人は非常に心配してくれているような気がします。(被害者意識かもしれませんが)
僕が思うのは日本はあまりにも平和だからだと思います。日本では大変なことは起こらないように思っているのではないでしょうか。自分のまわりには大変なことが起きないと思っているのではないでしょうか。他の国の方が何かが起こる可能性が高いことによると思えます。湾岸戦争のとき日本の対応が遅かったり、我々一般市民は石油が来ないことだけを心配していたのも(僕だけかもしれませんが)この幸せな環境に甘んじている人が多いからかもしれません。(95.5)
2.3 横浜の友達に対して(95.5)
ご心配の通り周囲でも自然倒壊している家がときどきあります。3月には遠くの家の自然倒壊により、外注先(地震で買ったばかりの機械が壊れた大崎さん)の工場が1日停電になりました。その大崎さんの工場の近くで、地震により倒壊しかけた家(A)が、隣の家(B)にもたれかかっていたのが、先日の大雨でもたれかかられていた家(B)がAの家の方向に倒壊し、今ではAの家が単独で立っています。もう少しなにかが起こればAの家も完全に倒壊しそうになっています。
僕が毎日通っているところにはそんな場所はないように見えますが、被災してそうな家、ビルには少し気をつけているつもりです。だんだんこの状況に慣れっこになっているように思うので少し気をつけておかないとまた惨事になってしまいそうです(95.5)
2.4 また地震だ(95.5)
今朝地震がありました。揺れは大したことはなかったのですが、揺れの前に地響きが聞こえ、非常に不気味でした。(95.5)
2.5 父の遺骨を移すにあたって(95.5)
明日父親の引っ越しを行います。今まで父は祖母の家(甲子園)にある祖父の仏壇にいたのですが、母が上田東町に新しく仏壇(父の新居です)を買ったので明日引っ越しをしてきます。僕自身は宗教を信じない人なので位牌がどこにあってもあまり関係なかったのですが、母の要望により引っ越すことになりました。
僕が一番父と話をする(僕の場合単に思い出すよりは思い出だした父に自分から話しかけているような気がするのでこのように表現しています)のは会社で父の席(現在僕の席)にすわり考え事をしているとき、父が乗っていたユーノスをボーッと運転しているとき、寝る前なので、仏壇の有無はあまり影響ないように思います。朝晩仏壇に向かえば、必ず日に2回父のことが意識のなかに現われるので、そのことはいいような気がします。他に、テレビのドラマなどで4人がけの食卓の先にテレビが置いてありそこで話をしているひとがいるときで、面と向かって話ができないのは悲しいと思うこともあります。(95.5)
2.6 父の追悼式(95.6)
震災直後の葬儀では母が列席できなかった上、交通事情と場所の問題で取引先の方に連絡しなかったため、会社としての追悼式を行うことにしました。
追悼式は葬儀社におねがするもののようなので、近くの葬儀社にお願いしました。1セット○○万円という計算でお願いしますといえば一応格好のつく追悼式ができるのですが、ベストを尽くさないと自分が納得できないと思い、細かいところまで踏み入って行うことにしました。
1.無宗教でする
まず父は熱心な仏教徒ではなかったので仏式ではするまいと思い、無宗教で行うことにしました。そうすると都合のいいことに読経の分時間が余るので多くの人に追悼の言葉をお願いできるようになりました。
追悼の言葉は
委員長の小柴さん(取引先の社長で父が尊敬していた人のひとりです)
同級生の三宅さん(遊び仲間です)
取引先の吉田さん(父が個人のこと(僕のことも含む)をよなよな相談していた人です)
社員の小川さん
略歴の紹介として同級生の兵庫さん(遊び仲間です)
にお願いしました。いろいろな話をしていいただき、僕は本当にうれしく思いました。
2.音楽
開式前、弔電の間、献花の時間に父が集めていたCDから正和(上の弟)がテープに編集し式の前、式中に流しました。ジャンルとしては、せせらぎや鳥の声と音楽が重ねてあるものやクラシックを使いました。はじめは楽団を呼んできて音楽を聞く時間をつくろうと思ったのですが、費用は大したことはないもののやたらとはでな追悼式になりそうだったので断念しました。
3.花
父の写真を飾る花や写真枠のアクセントに使う花、前の祭壇に飾る花に、父が好きそうな明るい花(菊は暗く思えるのでパス)を使い、皆さんに献花していただく花も、5種類用意しそれぞれの方の好みで選んでいただけるようにしました。
祭壇の花に父が好きだったみずばしょうを使いたかったのですが、さすがに無理とのことで断念しました。
4.招待者の格付け
会社が主催で行う追悼式なのでどうしても自分が大切だと思っている順ではなく、お客さんが先、仕入先はあとという順番になりおもしろくないように思いました。メーカや外注先の方あっての会社だと、生前父が言っていたことを思いおこすと、一般的な順番というのは納得がいきませんでした。そこで順不同にしようと思い、献花の時は名前の読み上げを行わず、前列の方から(早く来られた方から)献花していただくことにしました。
供花(両側に飾ってある大きな花)の順番も、一般的には大口の顧客、銀行等、他の顧客、仕入先という順番だそうですが、メーカー、外注先をできるだけ前の方に設置できるよう、お客さんと、仕入先を交互に配置しました。
こんなことを考えても誰も見てないし、おもしろくないと思われる方が何人かいらっしゃると思います。小さなことですが、父が僕に話してくれたことを少しでも表現できればぼく自身が満足でき増すし、何人かの方には心通じたのではと思っています。
・スケジュール
前半(30分)
黙祷
追悼のことば(三宅さん、吉田さん、小川さん)
略歴の紹介(兵庫さん)
電報紹介
実行委員長の追悼の言葉と挨拶
後半(30分)
献花
失敗したと思うところもあります。黙祷の時間が短すぎ(5秒ぐらいだったと思います)形だけ黙祷したように感じられたのでもっと細かい部分まで確認しておけばよかったと思っています。
何か不都合が起きた場合にいいわけができなくなるからという理由で、ぼく自身は話しも挨拶もしなかったのですが、やはり一言話したかったと思います。
全体としてはやってよかったと自分で思えたので、満足できました。また、何人かの方からよかったと声をかけていただき、うれしく思いました。(95.6)
2.7 家の取り壊し
昨日から家の取り壊しを行っています。今日はほとんどがれきの搬出が終わりあとはならすだけのようです(正和が立ち会い、そうはなしていました)。梁の大きな家だったのでもうあんな木材を贅沢(無駄)に使った家にはすめないんだろうなと思い、自分が持っていた日本的なものをまたひとつなくしたような気になり悲しく思います。過去ばかりを振り返ってもしかたがないのです..........(95.6)
2.8 プール
昨日泳ごうと思ってプールに行ったら、地震で閉鎖しているところはあるし、開いているところは超満員で泳げない市、阪神間はたいへんです(95.8)
2.9 六甲山(95.12)
今年も六甲縦走に参加しました。記録は全くダメだったのですが、地震の傷跡がいたるところに残っていて、記憶に残る縦走でした。山を削って平地をつくったところは、尾根のすぐ下から地滑りが起きていました。山頂のすこし東側の山を削り、谷側に埋め立ててつくった道路は地震で滑り通行止めになっていました。地震の力を再認識させられる縦走でした。(95.12)
2.10 父-子の会話(96.1)
私は父とよく話をしました。学生(大学)時代は仙台にいたこと、西宮に帰ってきても短期間で友人とで歩くことが多かったために夜な夜な話すことは少なかったのですが、会社員になって月〜金を寮で過ごし土日を西宮の実家で過ごすようになり、夜の11時頃から朝の4時、5時まで話すことがよくありました。父は酒を飲まない人なので、お茶を飲み、アイスクリームを食べながら話をしていました。よくそれだけで話ができるなと友人に言われたのですが、父と僕は親子としてではなく大人が二人それぞれの興味のあるところを話をしていたので、興味深く話せたのだと思います。
話の内容は父がどこかの研究所や大学で聞いてきた話の中で理解しにくい部分の解釈を求めてきたり、会社はこうあるべきだという話をしたり、僕たちの年代の人が何を考えているのかということ、新聞に載っている話題、神戸製鋼での会社員としてのものの考え方、人生観のような話しもしたように思います。このときに、父は、「どう考えたらいいのか」とか「きみはどう思うんだ」ということをよく口にしていました。僕の思い上がりかもしれませんが、父も僕のことを「子」としてではなく、人間として扱ってくれていたのだと思っています。父がなぜ、父-子ではなく2人の人間としてつきあってくれたのかはわかりませんが、僕は、子に対して1人の人間として取り扱ってくれる気持ちが好きでした。
父の高校時代の友人の辻村さんというかたと食事をする機会があり、辻村さんの子の育て方を聞いたのですが、高校を卒業したら親の家から出て自分で生活すべきだ、費用の問題でなく独立することが大切なんだ、自分で考えて、好きなことをすべきだ、ということをおっしゃってました。また、私の父に、子のことに気を使いすぎだと話をしたことがあるとお聞きしました。父が僕たち子に対して1人の人間として接してくれたのは辻村さんの影響があったのかもしれません。(96.1)
2.11 創造的復興(96.1)
コープ神戸が「創造的復興」ということばを掲げています。言葉だけが先走っているのかもしれませんが、我々被災者がなすべきところを的確に表現した言葉だと思います。(96.1)
2.12 義援金になれた人々の勘違い(96.1)
奥尻島の被災時には、1000万円(正確な数字は覚えていません)の義援金が全壊家屋に対して支払われたので阪神・淡路大震災の全壊家屋に対しても国等が不足分(現在の支払額が30万円なので970万円)の義援金(自主的に払ったのではないので義援金ではないはず?)を支払うべきだという署名がまわてきました。僕は署名をしなかったのですが、これを企画した人は、受け取る金額が同じである点において平等でないといけないと主張しているのだと思います。しかし、義援金という言葉は国が義務として払うのではなく、善意の寄付で被災した人を助けるというのが大切なのではないでしょうか。1000万円の不足分を国が出すことになれば、義援金は、国が支払うべき1000万円の一部を国に代わってあるいは国の負担を軽減するための寄付と位置づけられてしまい、義援金として寄付をすることは国の財政を助けているだけではないでしょうか。義援金はあくまでも善意だけで運営されるべきではないでしょうか。
住専(住宅専門金融)の被害者(預金者)には6800億円が支払われるのに、阪神・淡路大震災の被災者には国の予算から直接支払われるお金がゼロだと指摘している新聞阿がありました。僕は、国がお金で直接個人を援助することは自由主義経済ではないと思います(住専の場合のように農協という組織を援助するのはさらに悪いと思いますが...)。各々の個人、会社がリスクと経済効果を考え、家を建て、貯金をしているのですから、当然よく考えないと失敗することになるはずです。阪神間でたまたま地震に強い構造の家に住んでいた人はいても、耐震構造の家を建てていた人はほとんどいないと思います。阪神間、近畿では地震がないから耐震構造は必要なく、耐震構造でない家を建て、地震特約のない安い保険に自らの意志で入り、その分大きな家を建てたり、大きな車を買ったのではないでしょうか。たしかに、地震の場合突然天災で資産をなくし、住専の場合自分の知らないところで回収できなくなったのだから、援助は必要だと思います。しかし、あまり援助ばかり行うと、まじめなひとが(きちんと考えて投資した人が)ばかをみる社会になてしまうのではないでしょうか。よく考えて投資した人が被災し、あまり考えなかった人が被災したことは、けっこう平等だと思います。(96.1)
2.13 葬儀を思い返して
父の葬儀は、95.1.23に行いました。震災から葬儀のまでのいきさつについて記録します。
父が亡くなったという連絡を聞き、僕が遺体安置所についたのが95.1.17の17:30頃だったと思います。親戚の方が何人か来てくださり、母の看病と父の横についてくださっていました。当日は、母と正貴(下の弟)と私が食べる物を調達しないと行けないと思い、1時間ぐらいまわりを歩き回り、当然おにぎりやパンは品切れなのでお菓子やジュースを買いました。この時点では、父の葬儀については全く頭になく、残っている人をどうするのかということだけが頭の中にありました。夜中に、連絡がつかなかった親戚に電話をかけましたが、そのときもまだ葬儀について聞かれても明日考えると答えたように思います。
1.18に親戚の方からどうするんだ、何を手伝ったら、何を用意したらいいんだと聞かれたものの、母のけがの方が先だと思い、場所を確保するとおっしゃってた親戚の方に、全面的におまかせしていました。母を病院に入院させ、その親戚の方と葬儀の話をしはじめた時点で多くの問題があることがわかりました。
・葬儀をする場所(会場がない)
・西宮の火葬場はガスが来てないので使えず、近隣の火葬場のいっぱいで火葬できない。
・母が入院したため出席できないのではないか。
・道具は準備できるのかわからない。
という状態でまた、
「交通事情の悪い中どなたに声をかけるべきなのか。」
という問題もありました。私は父が葬儀を出したのを見たこともなく、単に列席しただけだったので、何をしたらいいのか、どんな順番で考えるのかもわかりませんでした。
親戚の方に葬儀を行う会場の確保と、火葬場の予約をしていただき、とりあえず葬儀ができるという状況になりました。電車は大阪-西宮間しか走っておらず、場所も取引先の方に出席していただくには少し手狭だったので、親戚だけで葬儀をしようとかんがえました。さらに入院先の医者から母を出席させてはいけないと宣告されたため、取引先の方と母を含めてもう一度きちんと葬儀をしようと決意し、6月に社葬を行いました。
葬儀を行う場所は尼崎の円徳寺というお寺で、ガス、水道、水が出るという快適な場所であったため、4日間父の遺体の前で生活する事にしました。
葬儀までの日々は、僕が会社関係の処置、具体的には父が亡くなったことにより閉鎖された銀行口座を開き、25日の給料と31日の支払いができるよう折衝し(通常は代表者を変更し、登記することにより口座を再開すんるが、登記所が被災し開いていなかったため特別な処置となり時間がかかった)、弟2人が倒壊した家から貴重品を取り出す作業をしていました。葬儀の準備にだけ携わる人がいなかったのであまり準備はできませんでした。
また、葬儀社の業界の取り決めにより、花は1対だけ、しきびはなし、特に祭壇の飾りもなしという物質的には非常に寂しい葬儀でした。僕がさすが父だと思ったのは、親戚以外に約60人の方が参列してくださったということです。そのときの交通事情は車は動かず、阪神電車は梅田-甲子園間と甲子園-西宮間のシャトルバス、阪急は梅田-西宮北口間、JRが大阪方面-甲子園口間を走らせていただけだったと思います。僕は非常にうれしく思い、物質的には寂しいものの、人がその分をカバーしたいい葬儀だったと自画自賛しています。最後の挨拶で父のファンの方に来ていただきそのことを父が一番喜んでいると思います、と話しました。(96.1)
2.14 母の記憶(96.1)
1周忌の準備をしていたときに、母と話をしていると、母は遺体安置所で父の顔を見ていないと言い出しました。僕の記憶では、1.17の夜に1回、そして、1.18の昼、母を病院に連れていく前に1回の計2回は遺体のところに行ったと思います。さすがに動揺していたんだと改めて実感させられました。反面、最後に父と会ったことぐらいは覚えておいてほしかったと少し残念に思います。(96.1)
2.15 96.1.13 父の一周忌の法要にて
1/13父の1周忌の法要を行いました。
これまでの行事はほとんど母ではなく僕の主催ということで行ってきたのですが、やはり、父に一番近い人である母がするべきだと考え母に主催してもらいました。初めての経験でうまく行かないところ、違う方法の方がいいと思われる点等、あったと思いますが今回は母がした点に意味があると思い、いつしか母も「私は知らないからできない」と文句を言っていましたが自分が主催した大切さを感じとることができると信じています。
この中で2回挨拶する機会があり、その内の1回を僕が担当しました。
その内容は2点あります。
1.父が思っていること。
ぼくはこれまで、葬儀、49日、追悼式で身内だけへの挨拶で思っていることを話しました。その中で、「皆さんに集まっていただいて、父がよろこんでいると思います」と言ってきました。それは間違いのように思います。父が本当に思っているのは、自分がしたいことがあふれんばかりにあるのに、もうなにもできないという「くやしさ」だと思います。父のために集まっていただいたことを僕自身はうれしく思っています。もし父が生きていたとしたら、父が今日集まっていただいた方と話をし、それぞれの方が父のいい部分、悪い部分を感じとり、それぞれの生き方に反映されたと思います。集まったことをよろこぶのではなく、父の前に集まり父の考え方、してきたことを思いだし、そのなかのいい部分をそれぞれの人に移植することが大切だと思います。
2.自分が父に対して思うこと。
僕は父が好きです。また、父を尊敬しています。自分の友達と話をしていると、父親と話をするわけでもなく、特に父親が素晴らしい人だと思っている人は少ないと思います。僕が父親のことを素晴らしいと思っているのは、全般的に素晴らしいと思っているのではなく、父の考え方の一部が好きだということです。当然、好きでないところ、間違っていると思うところは数多くあります。単に素晴らしいと思うところが、ダメだと思うところと比較して少ない、または小さいだけだと思います。
僕が父のことを素晴らしいと思う点は、僕を含む父の子(僕の兄弟)にたいして親子としてではなく、1人ひとりの人間として接してくれたことです(当然他の方に対しても同じように接していたのだと思います)。子供はこうしないといけないとか親だからこうしないといけないということを言わず、僕たちに1人の大人として接してくれたことだと思います。おまえはどう思うんだ、俺はこう思うという話をできた点が好きでした。僕自身も、周りにいる人に対して、会社の関係、兄弟の関係、親戚の関係としてではなく、一人ひとりの人間として接することができたらいいのに、と思いますし、そのように僕が考えるようになったことが、父が残してくれた一番の財産だと思っています。あとは、僕が父が残してくれた遺産を実行できるかどうかだと思います。
2.16 小柴社長(大阪バルブフィッティング)と話して
震災が起きた日になりみんは追悼追悼となくなった方に対して特別な何かをしなければならないように言っているが、一番のしないといけないことは、自分たちの通常の役割きちんと果たしてゆくことだとおっしゃていました。ぼくもそのとおりだと思います。特別に手を合わせることでなく、自分の中にその人を存在させ、その人の分自分を拡げて自分の役割を果たすことがまづ第一にしないといけないことだと思います。
この1年はどうでしたかという質問にたいし、ぼくが「去年と何もかわっていないように思え、自分は何かをしたという実感がわかない」ということをはなしたところ、「去年と同じレベルに維持するということをしたんだ。」「放っておいたら100の物が50、10、0になっていたものを100で維持したことは大きな成果だ」といわれ、ぼく自身もっといいものもっと素晴らしい考え方ということばかりを指向していた人間には目からうろこが落ちたような言葉でした。
2.17 西宮市の"阪神・淡路大震災1周年 西宮市犠牲者追悼式"に参列
1.馬場順三 西宮市長の追悼の言葉の中に気になる点が1点
大まかな内容は、「役所もがんばりました、復興はまだまだ続く。がんばって復興して元の住み良い西宮に戻しましょう!」というものです。
話の中で再建とかよみがえらせるとか復興という言葉がたくさん出てきました。地震直後のスピーチであれば、十分な内容だと思いますが、一年経っても震災直後と方向は変わっていないのかと思い残念に思いました(ぼくはかなり元に戻ってきていると思っているのですが、彼らの計画の中ではは4,50年の道のりのほんの1歩しか進んでないということかもしれません)。ぼくは1年も経てば元に戻す仕事は、大まかな計画の上では終わってしまったっていると思っていました。最低限の部分を元に戻し、そこをスタート地点とし、これから何を始めるのか、何を創り出して行くのかを考える時期だと思っていました。
全てを元に戻せばいいわけではないと思います。悪いところを取り除き、効果の小さなところをあきらめ、もっと必要な部分、もっと必要であろう部分を見いだし、そこに力を傾けて行くべきではないでしょうか? 電車が寸断され、水道が止まったままの状態でする話ではないと思いますが、95年の夏あるいは秋の状態で快適ではないながらも、そんなに困らない状態になっていたと思います。そこから先はプラスアルファーの部分ではないでしょうか? そうしたら、前例をそのまま踏襲する必要はなく、そこからさらいいいと思われる道を進めばいいと考えます(失敗した前例もありあまり考えなくても素晴らしい街づくりができると思います)。難点は、同じ物をつくるのであれば、建設会社は頭を使わずに仕事をできるのですが、新しいものをつくる場合は通常通りの苦労はしないといけないのが(役所、役人、建設業者にとっての)難点だと思います。
2.雑古宏一市議会議長は話さない方がいいと思った。
明らかに読み方を間違えた部分が3箇所ありました。当日のことばを自分で考えられなかったand/or考える暇がなかったand/orばかばかしくて考える気にならなかったのかはわかりませんが、他人に代筆させたのであれば、しっかり読み込むかふりがなをうってもらって、ばれないようにするぐらいの気遣いは必要です。
3.
市長のはなしやや貝原知事の弔辞中でみんなで一所懸命やってきたという話のときなどに涙が出てきました。この涙は父が亡くなったことを思い出した涙ではなく、いろいろな人が必死にやったこと、やってくれたこと、みんなが本気で助けてくれたこと、みんなががんばってくれたこと等々が思い出されうれしくて出た涙でした。
2.18 ぼくの1年は
僕にとってこの1年間はほんとうにあっという間の1年間でした。何をしたのかわからないのですが、たくさんのことをし、いろいろな経験をできたと感じることができる、有意義な一年でした。これは前述の小柴社長と話にも書きましたが、維持することの難しさと、維持できた満足感なのだと思います。
個々に何をしたかというのはあまり深く頭に残っていません。その場その場でベストを尽くしたとは思いますが、1つひとつは小さなことだったのだと思います。
我々の会社の中も、快適ではないながらも困らない状態にはなっていると思います。ここから、どのように良くしていくのかが大切だと思います。決して元に戻すことを1番の目標としないよう決意し物事を進めていかないといけないと実感しています。
2.19 新聞から
日経に神戸市は重工業をしめだす方向のようですが、大手がいなくなると中小の工場・会社もなくなり再開発をすれば見た目のいい街になるとはおもいますが、単なる流通の街にしてしまうと仙台のように100万人程度にわくが決まり、単に大阪の住宅地としてしか今の人口を維持できない空っぽの街になってしまうようにも思います。
阪神高速が湾岸線の高速料金の値下げの申し出をしたことに対して、運輸省が知らないふり(いくつかの申し出の中で、この件には回答がなかった)をしたということが書かれていました。これまでに有料道路を一般道路にし、無料にすることはあっても高速料金の値下げは無く、既成事実としたくないという考え方だろうとかいてありました。このため、北神戸線-湾岸線間は震災前は六甲アイランド-摩耶間、月見山-布施畑間の無料乗り継ぎで400円に対し、震災後は無料乗り継ぎが無くなり800円かかるという矛盾が生じることになってしまっています(値下げをしても矛盾が小さくなるだけですが...)。役所の都合で一般の人が困るよくある例のひとつです。
阪神高速のついでに神戸線はなくすことはできなかったのでしょうか?ロスアンゼルスの場合は壊れた高速を撤去し、市街地をバイパスする高速をつくったそうです。
阪神高速がこうなればいいなと思っていた案
1 神戸線をなくして名神と湾岸線をつなぎ湾岸線を5から6車線にすれば同じ量がさばけるはず。
2 43号線はもともと5車線の道であり、復旧後43号線は3車線になるらしいので、
阪神高速も地上を走ればよい。
3 神戸線を地下に埋める。交差点がある道路をまっすぐな道の下につくるのは非効率
(柱があるので曲がりにくく渋滞する)なので上下逆転させる。
1〜3とも阪神高速神戸線が高架として残らない案です。震災で高架を撤去した部分を見ると見晴らしが、よかったのが印象的でこれがずっと続けばと思いました。
2.20 正和のコメント
関西をはなれて、名古屋に暮らしていると、この頃では、阪神間の情報はほとんど入ってきません。一周年が近づいていたのでまた再び記事が増えつつあるとはいうものの、秋あたりには、新聞の全面から姿を消す日も度々ありました。(96.1正和)
地震からちょうど一年たちました。地震直後の2ヶ月はほとんど西宮にいたものの、ぶらぶら見てまわる暇があるわけでもなく、名古屋に戻ってからは、たまに帰省してもあまり出歩く暇があるわけでもなく、現在の実家の周囲以外の街の様子をあまり見る機会もなかったので、この機に、と西宮から神戸まで歩きながら、かつて自転車で走りまわっていた界隈を見てきました。(96.1正和)
さすがに壊れたビルや家屋、あるいは解体作業なんかも今ではほとんど見かけることができません。阪神高速は解体中でボロボロですが、それ以外の鉄道や道路、橋などのインフラもかなり改善されてきています。段差だらけだった道路は、すきまをアスファルトで埋めたり、再舗装したりしてあり、それほど慎重に走らなくても車の底を削ることはありません。長い間乱杭歯になっていた歩道の縁石などもようやく修復されはじめました。道路標識などはまだななめのものがあるようですが、あとまわしにされているのでしょう。(96.1正和)
しかし、街が復興しているわけではなく、個人の住宅の再建はほとんど手つかずに見えます。半壊、全壊した家屋が徹去されてしまい、街の印象は地震直後よりも寒々としているように見えます。甲子園から住吉の間にあった市場のうち、双葉市場(夙川)は高架が壊れて立ち退きになり、阪神市場(西宮)、三和市場(深江)、西宮中央商店街、香櫨園市場、青木駅南の市場はほとんど更地になり、と、数多くの市場が、再建されていません。(96.1正和)
当初は、新聞やテレビの報道では伝えられていない地震の痕跡を見付けようと思って歩きはじめたのですが、確かに痕跡がなかなか見付からないのです。見慣れてしまっているせいもあるでしょう。それよりも、なにげなく足りないので、写真ではとらえようがないということがだんだんわかってきました。街中の、空き地のありそうもないところに広大な更地があったり、もっと都心の一等地には平屋や低層の建物があったり、妙に工事現場や工事車両が多かったりと、震災地以外でもありえそうな風景で、「絵」にはなかなかならないのです。(時々高校の校庭にびっしり仮設住宅が建ってたりしますが)(96.1正和)
深江の、高速道路倒壊現場では、すでに新しい高架が架設されはじめています。柱の断面積は2倍以上になり、路盤部分は下から見ても軽そうな構造になっています。昔なら騒音源になりそうな感じですが、今の技術では振動もおさえられるのでしょう。西宮から甲子園の間は、落橋しなかったために、かえって解体には時間がかかっているようです。それでも徐々に空が拡がりつつあります。このまま再建しなければ景色がよくなって騒音も減り、いいと思うのですが、今年中には再建してしまうそうです。(96.1正和)
三宮センター街は、現在はアーケードがなくなって、明るくなりました。成人の日ということもあり、まっすぐ歩けないほどの人通りで、とても明るい印象をうけました。もしかしたら街が若返ったのかもしれません。(96.1正和)
カメラの故障のため、この日に撮った写真のほとんどは残念ながら現像できませんでした。翌日別のカメラを使って西宮の自宅周辺で撮った写真はちゃんと撮れていました。今後も定期的に散歩して、今度は地震の痕跡ではなく、復興の軌跡を記録していきたいと思います。(96.1正和)